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◆刊行『高橋五山の総合的研究:デザイン・絵雑誌・紙芝居』風間書房 2024年2月20日

 

●「高橋五山の紙芝居上演会」

2023年10月15日、無事盛会のうちに終えることができました。(誰でも紙芝居プロジェクト)
☆ご来場いただいた皆様、ご出演くださった皆様、本当にありがとうございました!
【開催日】2023 年 10月 15日(日)10:30~15:45
【場所】プーク人形劇場(渋谷区代々木2-12-3)最寄駅:新宿駅

高橋五山(1888-1965)の作品を通して、昔の紙芝居を和やかに楽しむ企画です。
教育現場での紙芝居活用を決定づけた「幼稚園紙芝居」(1935 創刊)シリーズ、
昭和25年度(第一回)芸術選奨文部大臣賞 「こねこのちろちゃん」も上演予定。

小学生、大学生、初心者、熟練者、多彩な方々が演じてくださいます。
<午前> 10:30~12:30
・赤ずきんちゃん(1935年)16枚
・三匹の子豚(1936年初版)20枚
・ネズミの嫁入り(1943年)14枚
・ぼたもちとおばあさん(1954年)12枚
・にじのあし(1958年)16枚
・あなたはどのこ(1962年)12枚
・金の魚(1935年)16枚
・けんかだま(2023年復刻版)8枚

<午後> 13:45~15:45
・こねこのちろちゃん(1949年初版)7枚
・花咲ぢぢい(1935年)20枚
・とんまなとんくま(1936年初版)18枚
・おむすびころりん(1938年初版)16枚
・カラス勘兵衛(1938年)16枚
・あおい山犬(1961年)16枚
・はいいろのひよこ(1960年)16枚
・てんからおだんご(1976年版)12枚

 

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◆◆新刊情報◆◆ お待たせしました! はり絵紙芝居『けんかだま』を復刻出版しました。
けんかだま(初版1949年)2023年3月7日発行
腹をたてると相手も腹をたてる。それが「けんかだま」。高橋五山は、争いやけんかについて考えるきっかけになることを意図して、この物語を仕立てました。原話はイソップ物語の「ヘラクレスとアテナ」と推察されます。五山は子どもたちと一緒に作って楽しめるように「はり絵紙芝居」を考案しました。この作品では、犬の作り方を紹介しています。本作品が、不毛な争いごとやけんかやいじめを止めるヒントになれば幸いです。

 

◆◆高橋五山の紹介 ◆◆

高橋五山(本名:高橋昇太郎 1888~1965) 学歴:京都市立美術工芸学校卒・東京美術学校図案科卒
京都市に生まれる。京都市立美術工芸学校卒業。明治44年(1911)、東京美術学校図案科(現東京芸大)を卒業後、幼年雑誌の編集に携わる。大正6年(1917)、文武堂の『幼女絵噺』の主幹になり、数々の児童雑誌の編集を手掛け、同時に若い画家の養成にも力を注いだ。昭和6年(1931)、全甲社を立ち上げ、月刊絵本や漫画などを出版。昭和10年、「幼稚園紙芝居シリーズ」を刊行する。翌11年から仏教紙芝居も手掛ける。紙芝居の脚本・絵・出版を自身で行い、現在に繋がる出版紙芝居の先駆者となる。物資不足の戦時下では保育現場でも簡単に制作できる「はり絵紙芝居」を考案。
戦後は五山作画『こねこのちろちゃん』(全甲社1949)が昭和25年度第1回芸術選奨文部大臣賞を受賞。紙芝居幻灯株式会社の社長になる。戦前・戦後と紙芝居文化の発展に尽くし、昭和36年(1961)、彼の業績を顕彰する「高橋五山賞」が制定される。

高橋五山は日本の近代デザイン史上において重要な位置を占める作品を生み出しています。東京瓦斯株式会社の募集図案に応募した作品が意匠登録され、その作品は第1回発明品展覧会(1909)で金牌を授与。日英博覧会(1910)に展示された作品は褒状を授与。さらに五山考案の書棚図案が大正大礼(1915)の東京府の献上品に採用されるなど、彼はデザイナーとしても活躍していました。このような足跡を残した五山がなぜ、児童文化に関心を持ち、幼児教育の大切さを感じ、紙芝居を保育に取り入れたのかについては、2歳で母を亡くしたことが根底にあると考えられます。

◆明治期のデザイン活動◆
五山が明治34年(1901)から38年(当時4年制)に学んだ京都市立美術工芸学校について、五山は「此頃は未だ図案と云ふ言葉は新しい言葉で其意味を解する者はすくなくなかった。私等もよくは知らなかった」と述べています。五山が同校で図案を学んでいた頃は、まだ図案という言葉の意味は漠然と受け取られる状況であったことがうかがえます。五山が東京美術学校に在学していたのは、明治39年から44年(当時5年制)です。その間に特待生に選ばれ、級長を命じられ、中学校と女学校師範学校の図画科教員免許を取得して卒業しました。しかし、卒業と同時に、それまで猶予になっていた兵役に2年間つくことになりました。東京美術学校時代の高橋五山(昇太郎)の主要なデザイン活動は以下の通り。

1、東京勧業博覧会出品「暖炉隠図案」(明治40年:1907)
2、東京瓦斯意匠懸賞一等「菖蒲式瓦斯燈釣金具図案」(明治41年:1908)
3、日英博覧会出品「綴織春秋模様図案」(明治43年:1910)
4、大礼献上品として東京府採用「笠翁式書棚図案」(明治44年:1911)

●東京府採用「笠翁式書棚図案」に関して
大正大礼の東京府献上品「笠扇式書棚」は、高橋五山(昇太郎)が意匠図案を考案し、須田賢司氏(木工芸の人間国宝)の祖父(桑月)が制作に関わっていたことが判明しました。2017年10月28日発行の『東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩-百年前の文化プロジェクト』展図録に誤りあり。以下参照のこと。
・東京藝術大学大学美術館 https://museum.geidai.ac.jp/news/2022/10/28-1.html
・主催者(NHK・NHKプロモーション)https://www.nhk-p.co.jp/event/detail.php?id=779
・参考資料「大正大礼の東京府献上品「笠翁式書棚」:高橋五山の図案と御蔵島産桑をもとにした能楽模様作品」『法政大学大学院紀要』 (2022-10-31)

●図案・意匠・デザイン
東京瓦斯株式会社の瓦斯燈の釣手に関する意匠の懸賞募集では、意匠という言葉が使われました。日英博覧会では「DESIGNS」の中に五山の作品が掲載されました。図案、意匠、デザインとその時に応じて呼び名が変わっています。五山が東京美術学校に在学していた明治末期は、さまざまな分野において、図案の必要性が認められるようになった時期であり、まさに新しいデザインの萌芽期であったといえるでしょう。五山がこの時代に培った技術や多彩な表現方法、海外からの刺激、蓄積してきた広い知識、クリエイティブな感性を磨いたことなどが、後の児童雑誌や紙芝居などに生かされ、五山の活動の基礎的な力となりました。五山と同期の美校出の中には、彫刻家の北村西望などもいて交流をもっていました。銀座で同窓会があったとき「みんな地位ができてきて、えらくなった。財産もできたようだ。だが子どものための紙芝居づくりを続けたオレのようなやつは、だれもおらんな」とほほえんでいたと堀尾青史(紙芝居作家、児童文学者)が記しています。

◆大正期の絵雑誌編集◆
大正元年、ようやく除隊となった五山は上京して、京都市立美術工芸学校時代からの親友の森田但山(大正2年東京美術学校卒)の家に落ち着きました。やがて天野貴金属宝飾店意匠部に就職が決まりました。そこで、五山は人気の浪曲師、桃中軒雲右衛門(1873-1916)から注文を受けたことを次のように回想しています。「私がまだ天野貴金属店に勤めている頃、雲右ェ門が金のカップを注文してきたので、その豪勢ぶりに驚いたものだが、間もなく二階の間借り生活で死んでいったと聞いた。その時枕の下に五十銭銀貨が何枚か敷いてあったそうだ。これが唯一の彼の財産だったのだ。平素派手な芸人だけに一層、気の毒に思えた」この文章によれば、五山は雲右衛門が亡くなる大正5年(1916)頃、天野貴金属宝飾店意匠部に宝飾デザイナーとして勤務していたと推察されます。いつまで在籍していたのかは不明です。
一方、大正6年に、五山は森田但山が仕立てた書籍『邦訳芥子園人物画譜』(1916)と『邦訳芥子園山水画譜』(1917)の全2巻の装幀を手がけています。箱入りの天金使用の豪華本で、表紙には中国の豚が描かれており、裏表紙には文武堂のロゴマークが印刷されています。そして、大正6年(1917)、文武堂から創刊した『幼女絵噺』(のち「幼女ヱバナシ」と改題)の主幹になりました。監修者は東京高等師範学校の水田みつでした。『幼女絵噺』の宣伝は、文芸雑誌『新思潮』2巻1号(1919年1月)の裏表紙にも掲載されています。同年10月に父が病気で亡くなり、翌年に家督を相続しました。五山が29歳の時でした。
創刊号『幼女絵噺』(1917年8月)の発刊に際しての言葉として、五山は「私は従来数年他の幼年雑誌の編集に関係して居りましたが、その間に不束ながらも信ずる処を思ふ存分発表して見たいと常々考へてゐました。幼年の雑誌をして、真に家庭に於けるお子様方の親しいお友達としたいといふ事は小さい私の胸に溢て居りました」と述べています。『幼女絵噺』は全頁が絵で構成されており、見開き頁を分割したり、拡張したり、枠線を装飾したりと、頁の使い方にデザイン性がみられ、図案科出身の五山ならではのデザイン的な絵の見せ方の工夫が施されています。頁の上覧部分を使って数頁分の連続絵を取り入れて、二つの物語が同時に楽しめる工夫も盛り込まれています。『幼女絵噺』は昭和8年(1933)3月号の第17巻3号まで確認され、17年間続きました。
五山が手掛けた雑誌のタイトルをみると「絵ばなし」という表現方法にこだわりがあったことが、編集の特色として挙げられます。上笙一郎・山崎朋子共著『日本の幼稚園』(1965)のなかに「五山がわたしたちに語ってくれたところによりますと、この雑誌の最大の呼びものは、五山の発案になる「絵ばなし」で、「五山は、ストーリーを書くばかりでなく、絵柄まで描いて画家にわたすほどの熱心さでこの仕事にとりくみました」と記されています。しかし、大正12年の関東大震災で出版業界は壊滅的な打撃を受けました。大正14年1月、講談社が大宣伝を展開して雑誌『キング』の発行を行いました。一冊一円の廉価版の文学全集を予約出版する円本ブームが起こり、激しい宣伝販売合戦が繰り広げられました。大正末から昭和初期にかけての出版界では、大宣伝と大量販売のあおりに加えて、昭和4年(1929)以降の世界恐慌によって多くの出版社が倒産に追い込まれ、雑誌も廃刊になるような状況でした。
五山は次のように回想しています。「長い間、幼年絵雑誌の編集にたずさわっていたが、金融界の世界的恐慌のためにこれら中小資本の出版社は相次いで倒産、雑誌は相次いで廃刊になった。資本力をもつ講談社の絵雑誌が台頭したことにもよるだろう。だがなんとしても私は、子どもへの愛着が断ち切れない。それで、昭和6年から全甲社を独力経営して幼児ものの出版をはじめていた」(「ででむし」1959年)。こうして自ら出版社を興し、独力経営して絵本や漫画などを出版しました。
五山は、これから世に出る若い画家の養成も行っていました。太田聴雨も五山編集の児童雑誌に挿絵を描いていました。童謡詩人で全甲社のスタッフの大村主計は「大正二年頃から、文武堂発行の八点の月刊絵本および雑誌の編集を引き受けていた。これが学年別雑誌のはしりであった。この雑誌に与田準一の最初の原稿も載り、松山文雄なども出入りしていた」と、当時の五山の活動を語っています。漫画家の松山文雄は自伝の中で最初に絵を採用してくれたのが高橋五山だったと述べており、「わたしのようなかわった絵も一点位はまじっている方がよいという意見」(『赤白黒』1969年)だったと記しています。一方、五山は松山文雄の画風について日記の中で、「よく言えば枯淡味があるというのだろうが、暖かい、ふっくらしたものが感じられない、やつれた感じだ」と評しています。このような彼の個性を五山は認めて採用したのでした。

◆昭和草創期の紙芝居◆
昭和10年、五山は47歳の時に「紙芝居に生涯をかけても」と決心しました。そして紙芝居を幼児教育の場に普及させようと、自社の全甲社から『赤頭巾ちゃん』(1935)を皮切りに「幼稚園紙芝居シリーズ」第一期10巻の刊行を開始しました。
「街頭紙芝居は、描き画である。毎日一巻ずつ制作して全国の配給網へ巡回させる仕組みである。これがたとえ優れた文化財となる日があっても、鹿児島や長崎の子どもが受ける恩恵は一年ものちのことである。それでは大衆向きの文化財としての価値は極めて低い。印刷による大量出版、全国への同時配給、これだ、これだ、私の決心はいよいよ強固になった」と出版紙芝居への思いを語っています。五山によると、当初は外交員を雇って幼稚園に紙芝居を販売していました。後年、「私の園では、良家のお子さまばかりお預かりしていますからねえ」と辛辣に言われ、玄関払いされたことを「ででむし」という手記に書いています。彼の日記などから、これは東京女子高等師範学校附属幼稚園に紙芝居を導入しようとした際に言われた言葉ではないかと推察されます。五山は東京女子高等師範学校附属幼稚園および同高等師範学校の父兄でした。
昭和13年(1938)には国家総動員法が公布されるなど戦時体制に入りつつある社会状況ではありましたが、この頃は「幼稚園紙芝居シリーズ」の出版がかなり進んで全国に届けられていました。昭和13年5月、五山は第二期「幼稚園紙芝居」第11輯『ピーター兎』の出版を決行しました(参考資料「高橋五山による「ピーターラビット」の紙芝居化から劇遊びへの展開」『法政大学大学院紀要』2021-03)。昭和13年には『とんまなとん熊』と『三匹の仔豚』が再版され、昭和14年には早くも『ピーター兎』も版が重ねられました。『おむすびころりん』は昭和14年の二版と昭和16年の三版まで確認されています。
さらに昭和12年には日比谷公園音楽堂で五山が制作した仏教紙芝居『花まつり』の拡大版が上演されて、多くの人に知られるようになりました。仏教者で幼児教育者の内山憲尚は「全甲社の教育紙芝居はヒットした。毎月一巻位次から次へと幼児向きの紙芝居が発行され、全国の幼稚園、保育所の文化財に新しい途を開いた」と述べ「全甲社が先鞭をつけた教育紙芝居に於ける成功によって、教育紙芝居の制作業者が新らしくできてきた」と記しています(「紙芝居の高橋五山」『児童文芸』10巻3号、1965年)。このように五山の「幼稚園紙芝居」は出版して間もなく保育現場に普及が図られたのでした(参考資料「紙芝居の保育への導入過程と倉橋惣三の紙芝居関与の再検討」『法政大学大学院紀要』2021-10)。
物資が極端に乏しくなった戦時下にあって、五山は紙芝居を折紙で表現する手法を考案しました。昭和18年(1943)と昭和19年に、雑誌『紙芝居』誌上で「折紙紙芝居の作り方」と「貼紙絵紙芝居の作り方」を発表しました。折紙紙芝居の実例として「小豚の喧嘩」という作品を掲載しており、この作品は戦後になって出版されました。戦後に発表された『てんからおだんご』『けんかだま』『ぶたのいつつご』などの材料は、防空壕で焼け残ったものでした。紙芝居『こねこのちろちゃん』(高橋五山作画:1949年10月、全甲社)は、わずか7枚の紙芝居ですが、画面の抜き差しによって22場面に展開するというもので、第一回 芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。昭和25年度(第一回)芸術選奨文部大臣賞授与式の案内状と賞状が残されています。
●詳細はこちらをご覧ください ⇒芸術選奨文部大臣賞

◆五山語録◆
机の上でものをかくな
五山の師匠は子どもたちだった。子どもたちの中に入り込み、子どもたちの混じり気ない批評を聞く中で、文章を直し、絵の描法を考えろということ。
上からゆくな、下からゆくな、対等にいけ
紙芝居の実演の心構えとして、幼児であろうと対等にいけ、そうでないと本当に幼児の心とふれあえない、上からの押しつけや、迎合するような卑屈の態度でもいけない、まっすぐにやることが大切だという意味。「上から」教えるようにではなく、「下から」媚びるのではなく、「対等にいけ」—-五山の名言。
紙芝居は3歳から80歳まで楽しめる
紙芝居は誰でも楽しめるものです。
わたしはもう、作品の中にしか生きていないのだから
晩年、病臥していた時の言葉。今回の復刻が実現したのは、この言葉が追いかけてくるからです。