高橋五山と紙芝居

紙芝居は日本で生まれ育った独自の文化

紙芝居は、外国で「KAMISHIBAI」として知られ、日本で生まれ育った独自の文化です。昭和5年頃、東京の下町で街頭紙芝居として庶民の中で生まれました。紙芝居のルーツについては、「絵解き」「絵巻」「奈良絵本」「のぞきからくり」「写し絵」「立ち絵」といった中に、紙芝居の要素が含まれていると考えられ、日本独自の文化として育ってきました。

高橋五山は、「見る、聞く」という紙芝居の魅力に芸術性と教育性を盛り込めば、すばらしい保育の文化財になると考え、自社の全甲社から幼稚園紙芝居を刊行する決意をしました。最初の作品は昭和10年4月発行の「赤ずきんちゃん」でした。以下、作品より抜粋。

 

『幼稚園紙芝居シリーズ』『仏教紙芝居』 抜粋

昭和10(1935)年
保育紙芝居を創始。保育紙芝居の開拓者と位置づけされる。
「赤頭巾ちゃん」「花咲ぢぢい」「長靴をはいた猫」「金の魚」「かもとり権兵衛」

昭和11(1936)年
「三匹の仔豚」「大国主命と白兎」「かぐや姫」「とんまなとん熊」
◆仏教紙芝居刊行開始⇒「花まつり」「たままつり」「お釈迦様と鳩」

昭和12(1937)年
「不思議の國アリス物語」 仏教紙芝居「聖徳太子さま」

昭和13(1938)年
「ピーター兎」「おむすびころりん」「からす勘兵衛」
仏教紙芝居「成道のお話」

昭和14(1939)年
「七匹の小山羊」

昭和15(1940)年
「ハンスの宝」「あかんぼばあさん」 仏教紙芝居「良寛さん」
◆この頃から、「はり絵紙芝居」を考案・制作。

昭和16(1941)年
「クマノオウチ」「コブトリ」

昭和17(1942)年
「ピョンちゃんのおつかひ」 仏教紙芝居「ブンブク茶釜」

昭和18(1943)年
「オニノツリハシ」「スズメノオヤド」「ネズミノヨメイリ」
「オベンタウ」「ベニスズメトウグヒス」「ヨクバリイヌ」

当時、絵本を手にできたのは、一部の限られた家庭の子どもだけでした。子どもの文化財が乏しい時期に、実演によって、目と耳から外国童話に接することは、子どもたちにとって新鮮な喜びだったと思われます。紙芝居は絵本と違って、一組で大勢の子どもを楽しませることができる普及性の高いものであり、外国童話の紙芝居化という五山の試みは、日本の土壌に外国童話を広めることにつながりました。

紙芝居は「絵」「文」「語り」という、三つの分野「美術」「文学」「演劇」の統合された芸術であるとも言えます。しかし、そのことが紙芝居を孤立化させ、よくわからないものとして、研究対象の枠外に置いておかれてきました。紙芝居は、一組あれば大勢の人と共感を得られるすばらしい文化財です。商業的には成り立たない面もありますが、だからこそ、守っていかなければと思います。

参考までに⇒1962年に高橋五山賞ができました。1回から20回の受賞作品を左記メニュー画面「高橋五山賞」に載せています。

 

紙芝居の工夫

当時、人気の「黄金バット」など街頭紙芝居に負けないように様々な工夫を凝らしました。「長靴をはいた猫」「三匹の仔豚」「ふしぎの国アリス物語」「とんまなとん熊」「七匹の小山羊」「熊のお家」「ピーター兎」など多くの外国童話を取り入れています。また、第一巻「赤ずきんちゃん」はディズニーを参考に、遠目にもよく見えるように描線を太く色彩は淡くし、「花さかじじい」「ネズミの嫁入り」では影絵を取り入れて趣を変えました。

「金の魚」には「カエルトウシ」の付録がついて歌いながら幕が開くように音楽を盛り込んでいます。「からす勘兵衛」にはカラスのさしこみ、「ハンスの宝」は下半分抜き差しが出来るように工夫しました。

物資不足の中では印刷紙芝居の代わりに、「ヨクバリイヌ」「ベニスズメトウグヒス」「コトリノユメ」「てんからおだんご」「こぶたのけんか」等の手作り「はり絵紙芝居」を考案しました。この「はり絵紙芝居」は、保育現場で幼児と一緒に制作でき、子どもたちに紙芝居を見る喜びとともに、作るヒントも与えてくれる紙芝居として生かされました。五山はさらに昭和11年から「仏教紙芝居」シリーズも刊行しました。

 

世界で一番有名なウサギ、ピーター

1902年に英国で発刊

画像の説明

書籍として最初に発行された日本語訳は1956年に光文社から出版された光吉夏弥訳の『世界新名作童話 ぴーたーうさぎのぼうけん』となっていましたが、紙芝居ピーター兎は1938年の刊行でした。さらに、五山は大正期の絵雑誌の編集者時代にピーター兎(エバナシ)を手がけていたことが最近になって確認できました。おそらく大正期には様々な絵雑誌で取り上げられていたものと推察されます。