高橋五山 紙芝居の世界へようこそ 

あれこれ

異端の人 高橋五山  当時の日本の主流には背を向けていた

高橋五山は、1888(明治21)年に京都に生まれ、本名は、昇太郎、五山は雅号です。京都市立美術学校卒業後、東京美術学校図案科に進学し、二つの美術学校を卒業しました。本来であれば、美術家の道を歩むべきところ、卒業後は、幼年雑誌の編集にたずさわりました。五山の発案した「絵ばなし」は、雑誌最大の呼び物で、見開きページを八分して絵を描き、それに簡単なストーリーをつけたものでした。大正2年頃から「幼女エバナシ」「小学一年、二年、三年」「ジョウチャン」「ボッチャン」など8冊の月刊絵本を手がけ、編集スタジオで、これから世に出る若い画家の養成も行っていました。時代は、昭和に入り、経済恐慌で中小の出版社は相次いで倒産しました。そこで、昭和6年、全甲社という出版社を興し、独力経営して絵本や絵雑誌を出版しました。

しかし、「赤い鳥」「コドモノクニ」という児童文学運動の流れには、背を向けてきました。五山の目指したものは大衆向きの文化財であったからです。五山は昭和10年、47歳の時に「紙芝居に生涯をかけても」と決心しました。その時の思いを次のように語っています。
「街頭紙芝居は、描き画である。毎日一巻ずつ制作して全国の配給網へ巡回させる仕組みである。これがたとえ優れた文化財となる日があっても、鹿児島や長崎の子どもが受ける恩恵は一年ものちのことである。それでは大衆向きの文化財としての価値は極めて低い。印刷による大量出版、全国への同時配給、これだ、これだ、私の決心はいよいよ強固になった」。

五山と同期の美校出の中には、彫刻家の北村西望などもいて交流をもっていました。銀座で同窓会があったとき「みんな地位ができてきて、えらくなった。財産もできたようだ。だが子どものための紙芝居づくりを続けたオレのようなやつは、だれもおらんな」とほほえんでいたと堀尾青史(紙芝居作家、児童文学者)が記しています。

五山語録

机の上でものをかくな

五山の師匠は子どもたちでした。子どもたちの中に入り込み、子どもたちの混じり気ない批評を聞く中で、文章を直し、絵の描法を考えろということ。

上からゆくな。下からゆくな。対等にいけ。

紙芝居の実演の心構えとして、幼児であろうと対等にいけ、そうでないと本当に幼児の心とふれあえない、上からの押しつけや、迎合するような卑屈の態度でもいけない、まっすぐにやることが大切だという意味。「上から」教えるようにではなく、「下から」媚びるのではなく、「対等にいけ」----五山の名言。

わたしはもう、作品の中にしか生きていないのだから。

晩年、病臥していた時の言葉。
この言葉が作品の中から聞こえてきたので、復刻することができました。

紙芝居は、3歳から80歳まで楽しめるもの。

紙芝居はいつでも、どこでも、だれでも楽しめるものです。

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